FORGIVING〜西新宿カウンセリングルーム〜の心理カウンセラーが、それぞれにコラムを紹介しています。

2011年01月31日

中川ゆうこカウンセラーのコラム

gift1a.gif最近、私は癒しを欲していることに気づきました。

私の中で『癒し』という感覚は抽象的でつかみにくい言葉の表現でした。
好きや、嫌い、熱い、寒いといった他の感覚とは違った印象を持っていたのです。
よく考えてみると、好きや嫌いもその中身は人それぞれの意味を持ち、抽象的な意味合いも含むのだから癒しとその他の感覚の違いは無いのですが、一緒だとは捉えられなかったのです。

癒しとは何なのかが分からない私は、その意味を探していました。
ストレスフルな現代社会に生きる私達の日常では、『癒し』という言葉がたくさん使われています。
私は、誰かが『癒されたい。癒された。』などと話す度に、その言葉の意味や感覚が私の中にも存在するのかどうかを知りたくて、その言葉の意味を聞いていました。また、単純に言葉の意味を辞書で調べたり、癒しに関する記事を読んだりもしました。
その結果、私の中では、癒しとは心理的な安心感を得ること、と位置づけました。

では、癒しという言葉が多用されているこの世の中で、この感覚の意味が腑に落ちない私は、今まで癒されたことがなかったのだろうか。つまり、心理的な安心感を得た経験が無いのだろうか、という疑問がわきました。

人から無条件に愛された経験や、受け入れられた経験がないと、その感覚を感じるのは困難な場合があります。
それと同じ考え方で、私は癒される感覚を知らないのではないかと疑いました。

私は今まで、心理的な安心を得たことが全く無かったのか。
そんなことはありえない、とは言える。ではなぜ、癒しを知らなかったのか。
もしかすると、自覚していなかったのかもしれない。
今まで心理的な安心を得ることで、癒しを得ているという認識が無かった様に思えたのです。
意識をしていないのだから、その感覚にどっぷり浸り味わうことが出来なかったのかもしれません。
それに気づいた今、癒されることを体感し、癒しが私にもたらす影響をありありと感じ、存分に味わっていきたい。そんな欲求にかられています。私にとっての癒しの方法は、安心できる人に会うこと、くつろげる時間を持つこと、美味しいご飯を食べること、セラピーを施されること等、少し考えただけでもたくさん出てきます。これらを通して、自分自身をトリートメントし愛しむことの幸せを実感していきたいと思っています。

さて、あなたにとって、癒しとは何ですか。
その癒しは、今も得られていますか。
あなたの生活の中に、あなた自身が癒される時間を加えてみてはいかがでしょうか。

また、今回は『癒し』について考えたことですが、『愛すること』『受け入れること』『許すこと』・・・など、自分にとって、その言葉がどういう意味を持つかを探している時、このコラムが参考になれば幸いです。
ニックネーム 心理カウンセラーのコラム at 10:32 | コラム

2010年11月08日

富田聡美カウンセラーのコラム

aki_mi.gif 11月に入り今年も残すところあと2ヶ月。あぁ、また一年が終わってしまう。この一年、自分は何か意味のあることをしただろうか?と心中密かに焦っている人も多いのではないでしょうか。私もその一人なのですが、そんな思いを抱えた中、平城京遷都1300年を記念して賑わっている奈良に行ってきました。

 平城京址に設置された歴史館では当時の都の構えがVRで放映されていたり、貴族や庶民の生活、神の子である天皇が民の平安を願って仏教を受け入れこの国で広がっていく様子、唐の文化を吸収して一国家としての繁栄を築いていく様子がヴィジュアル的に説明されていたりして、この時代を生きた人たちの夢やロマンを感じることができ、期待以上のものを教えてもらったように思います。

 そんな目玉的な場所を含めいくつかの史跡を廻って感じたのは、当時の人たちにとっての時間と、現代を生きる私たちのそれとの違いです。もちろん時計などというものは存在しませんでしたから人々が時を知るのは寺の鐘の音でした。もちろん人々は太陽の高さである程度時間を測っていたでしょう。でも、秒刻みの時計に背中を押される現代にはない大様さがこの時代はあったと思います。いすれにしろ、今とは時間というものの受け止め方が全く違ったのだろうなぁと思いました。また、当時の人の寿命は私たちより余程短いのに、人ひとりが持つ時間には限りがあるということへの焦りなんて微塵も感じることもなく、おおらかに生きていたんだろう、と羨ましく思いました。

 また、京都とは違い奈良の名所は自然と一体化している印象があります。名所が自然の持つパワーを受け取れる場所を選んで点在しているのです。交通手段を電車やバスに頼るようになった現代でも、それぞれの名所がうまく繋がらないから不便で仕様がない(笑)。晴れ渡ってはいても人通りがなく寂しい空気の中、一時間に1便、あるかないかのバス停でバスを待つ心細さには何ともいえないものがありました。私はこれらの“名所”に行くために当時の人々がどれだけの危険を覚悟し、時間を費やしたのだろうと思ったのですが、もしかしたら人々は単純に、自分が慕う神様に会いたいから行く、程度にしか感じていなかったのかもしれないです。

 古の人たちにも何らかの“縛り”はあったはずで、それは身分というようなものだったかもしれない。だから今の私たちの方がより辛い時代を生きているわけではないと思うのですが、心にゆとりがあるかないかということで考えると、時間とか、自分が生きた証を残さなければと必死になっている今の人たちに比べると、余程自分のテンポで生き、心の赴くままにやりたいことをして人生を過ごしていたのだろうな、と思いました。

 私たちは悠久の時の流れの中で生きています。私たちが存在する時間はそのほんの一瞬です。物が溢れ、インフラが整っている日本に生まれた今の私たちの目には、夢もロマンも見えないかもしれません。そんな時代にあっても、私たち一人ひとりに与えられた使命はあると思います。でも一瞬一秒に追い立てられる日々の中でそれを知るのは難しいことです。ですから時には時間を忘れて、自分はどんなことをしたいと思っているのか、自分らしく生きるってどういうことなのか、じっくりと自分に問いかける必要があるではないでしょうか。
ニックネーム 心理カウンセラーのコラム at 10:48 | コラム

2010年07月05日

中川ゆうこカウンセラーのコラム

natu_par.gif最近、何かに感動しましたか?

私は最近、ワールドカップ南アフリカ大会での日本対パラグアイ戦を観て、とても感動しました。私だけでなく、多くの人の心が動いたことだと思います。
もちろん、人の数だけ多くの意見があると思うので、ポジティブな意見とネガティブな意見が出るのは当たり前ですが、いずれも心が動いたことには変わりが無いと思うので、ここでは、どちらも同様に考えて行きたいと思います。

では、なぜ、こんなに多くの人の心を動かすことができたのか。
普段からサッカーを観戦しているわけでも、日本代表の動向を詳しく知らない私でも、感動したのはなぜなのか。私はその理由を、他の人がどの部分で感動したのかを聞くことや、メディアで報道されるコメントなどを参考にしながら考えていました。皆が真剣勝負をしている姿が、凄くよく伝わってきたことが観ているこちらの感動の基盤にあったとしても、それから派生する理由は千差万別でした。
人の心に影響を与える出来事は共通であっても、それに伴って動く心模様は各々に違いがあるということでしょう。このことは、私たちの生活の中でも共通して言えることです。

例えば、念願だった夢が叶ったら感動する人は多いでしょう。
しかし、中には、夢が実現してしまったら次の目標を見つけないといけない、と焦る人もいるでしょう。また、手に入れたものを失う怖さから、恐怖でいっぱいになる人もいるでしょう。努力して叶えた夢なのに、自分には不釣合いだと自ら手放す人もいるかもしれません。
そこには、正解も間違いもありません。ただ、その人の傾向がでているだけです。その傾向をよく理解し、今動いている気持ちは、自分の中の何を写しているのかをみていくと、もっと自分のことがわかるきっかけになるでしょう。

今回、サッカーを観て感動し涙しましたが、気づいてみれば、大人になるとこういったことが少なくなった様に思います。子供の頃は、もっとよく泣いていた気がするな、と。いつの間にか、ある程度のことの想定ができる様になったり、失望して傷つかないための防御策として、私は心動かすことを放棄したのかもしれません。これからは、夢が叶うといった壮大なことに限ったことではなく、空が綺麗だったとか、ご飯が美味しい、といった些細なことにも反応できる心が持てる様に思うのと同時に、サッカーを通して私に感動を与えてくれた全ての人や物に感謝したいと思います。
ありがとう。
ニックネーム 心理カウンセラーのコラム at 15:35 | コラム

2010年06月07日

富田聡美カウンセラーのコラム

azisai2b.gif 近々、大学時代の部活動の同窓会に参加することになりました。大学を卒業して既に20余年、初めての参加です。というより、今回声をかけられるまで同窓会をしていることを知りませんでした。これまでに何回、同窓会が開かれていたのかは訊ねてないのですが、なんで声をかけられたのが今年なのかな?タイミングが良すぎない?と感じています。

どういうことかというと、私には「私の人生は25歳から始まった」と豪語していた時期がありました。記憶にある限りの小さい頃から自分自身の考えを持ったことがなく、自分の行為に責任を持たず、周りからは嫌われ、人間として未熟だった学生時代は私にとって恥の時代であり、記憶から抹消したいものでした。ですから学生時代を否定し続けていたこの時期に同窓会の誘いがあったとしても、決して参加することはなかったと思います。

社会人となった私は、ある人と出会ったことをきっかけに、自分が自分のために生きてよいことを知りました。そして富田聡美という人間を自分の中に見出し、開放し、育てる過程を歩み始めたのですが、過去の記憶は時々顔を出しては新しい人生を歩んでいる喜びに水を注します。考えてみれば現在の自分は過去からの延長線上を生きているのですから、当然のことと言えます。

 そうして私は、過去の嫌な記憶と向き合わざるを得なくなりました。何故なら、過去に起こった出来事がどうしてそうなったかを理解できないままにしておくと結局、そのことに捕らわれ続け、自責する、自分を恥に思うことしかできないからです。でもそうなった背景が分かったとき、自分がそういう方法しか知らなかったことが分かり、自責したり、自分を恥に思ったりする必要がないことを知るのです。

 最近私は、もう長いこと自問していたことに答えを得ました。それが今回、同窓会への誘いを受けるのに繋がったのだと思っています。そして今やっと再会できるようになったことを嬉しく思うのです。

 過去を封印したつもりでいても、それは実際には無理なことだと気づいてしまったなら、勇気を出して向かい合ってみませんか?きっと健気だった自分に出合うことと思いますよ。
ニックネーム 心理カウンセラーのコラム at 08:25 | コラム

2010年04月05日

中川ゆうこカウンセラーのコラム

plant5mini.gif最近、かつて書いていた日記を読み返し、ある悩みを抱えていた時期の事を思い出したので、その時のことについて書こうと思います。

私は、問題を抱えどうしたら良いか分からなくなった時、今、目の前で起きていることを整理し解決するために、自己洞察をします。

自分の傾向性や問題の原因、自分がしたいことと現実との差には何があるのかなどを考えます。もちろん、誰かに相談したり、カウンセリングを受けたりもします。

何らかの答えを得るまで、思考を繰り返すのです。
今起きていることの意味、自分の行動や言動の意味、考えては行き詰まり、また、考える。

しかし、この時は問題を直視できずに、考える事を放棄したくなっていました。とても辛く苦しかったことを覚えています。問題を見ていないこと、歪んだ解釈をしていること、そんな自分を正当化しようとしていることも理解していましたが、解決のために原因を探ることがどうしてもできなかったのです。そして、悩みの中にいるときは、人間関係、職場の環境、仕事の内容、恋愛、家族、など自分に関わる全てのことがうまく行かないように感じていました。

そんな時、あるブログで『意味のないこともある。』という言葉を目にしました。

自分の抱えている問題の意味を必死で探そうとしながらも、自分自身が抵抗して直視できずにいたとき、この言葉に凄く救われました。私を苦しませている問題の意味は無いのだ。ただ運が悪かっただけ。もちろん、頭では意味がないとも運のせいだとも思っていませんでした。しかし、解決するために思考しなければいけないと焦っていた私にとって、この言葉がガス抜きのような作用をしたのです。一生懸命に思考していたけれど、答えが見つからない無力さや苛立ち、悩みの中から抜け出せず苦しむ私に、まずは落ち着いて考えられるだけの心の余裕が必要だったのかもしれません。この言葉を受けてからは、肩の力が抜けて自己洞察できるようになり、悩みの中から抜け出すことができました。

カウンセリングに来られる方も、いっぱいいっぱいになってから来所される方が多いように感じます。
問題と向き合わなければ解決しないと思いますが、たくさんのストレスや不安、心配事や悩みを持ちきれない程に抱えていては、整理することすらできません。問題を手にとることも、置いておくこともできるからこそ、解決できるのかもしれません。
もし、あなたが私と同じように行き詰って苦しんでいたとしたら、一度、その手から問題を降してみませんか。自由に使える両手で、今のあなたの問題を整理してみてはいかがでしょうか。
ニックネーム 心理カウンセラーのコラム at 20:51 | コラム